牧師の紹介・담임목사 소개

牧師 李明忠(イ・ミョンチュン)담임목사 이명충

1974年 兵庫県神戸市生まれ
在日大韓基督教会の京都教会で伝道師、東京教会で副牧師、そして横浜教会の担任牧師として2010年4月に就任。

1974년 효고현 고오베시 출생
재일대한기독교회 교토교회 전도사, 동경교회 부목사, 요코하마교회 담임목사로 2010년 4월 부임

教会の歴史・교회 역사

民族の拠りどころに開拓された教会 민족의 거점으로 개척된 개회

1910年 日韓併合によって、朝鮮人が増加し、横浜に朝鮮人の集落ができはじめた。
1917年 東京教会の朴鍾純牧師が横浜の中村町で開拓伝道を開始。
1918年 東京韓国YMCAで朝鮮人留学生による2・8独立宣言が出され、韓国の3・1独立運動の導火線となった。

また、1918年に共立女子神学校に初の朝鮮人留学生(金信喜)が入学している。共立女子神学校は1902年から1979年まで477名の卒業生を出しているが、その内、実に62名が朝鮮人卒業生である。同校は外国人を差別なく受け入れることと教会学校に力を入れることが、開校以来の特徴であった。

そのため、同校の在学生が初期の横浜教会の活動に深くかかわっている。
初期の横浜教会の教役者は、韓国からの宣教師として派遣されており、数年後に変わったようだが、現在我々が知りうる内容は、韓国の「福音新聞」に記載されている内容から確認できるもののみである。

1923年の関東大震災で同胞の大虐殺があり、李誠七氏が遺体の処理と供養に奔走するが、韓国に残っている東京韓国YMCA編の関東大震災報告によれば、横浜地区の被害者救済が組織的に行われたことから、横浜教会として、何らかの活動が行われた筈だが、それを推測できるのは外の記録からである。
1924年、李誠七氏が愛隣園を組織、1926年神奈川内鮮協会が設立されると、県・警察関係者以外、社会事業家、宗教家として、理事・評議員中わずか4名の朝鮮人の中に李誠七氏の名前が見える。
1928年に横浜教会の創立礼拝が指路教会で行われ、同年11月に中区松影町16に教会が移転し、崔경학(ギョンハク)伝道師が担当しているが、その前の担当教役者は何人かが交代し、中村町周辺での家庭礼拝と教会学校を展開していた模様である。
1929年「横浜朝鮮イエス教会」として、神奈川県知事の認可を受ける。
1930年、横浜教会は一時、李誠七氏の自宅、常盤町に移転。その後、会員増加のため現在の打越に移転。
1931年カナダ宣教部の支援でイム・ジョンホ女性伝道師着任。1932年、金吉昌牧師宅で教会堂建築期成会が組織される。同年、金吉昌牧師が京都へ転任。金은태(ウンテ)牧師が1年視務し、帰国。1933年、李元道伝道師が赴任し、現在の教会地所を買い足した。
1934年、朱寛宇伝道師赴任。同年、牧師按手を受け、牧師として執務。

横浜教会の黄金時代(1935~1940)

①横浜教会婦人会設立
②共立女子神学校在学生を組織
③同胞のいる14ヶ所での教会学校
④リーダーシップの充実(金영선(ヨンソン)牧師、金禹鉉牧師・李永實女性伝道師、孫世権長老、朴昌淳長老、孫昌淳長老)

県下の同胞の集うところ、横須賀、鶴見、川崎、子安、新山下、中村、弘明寺、宮川、根岸、稲荷山、生麦、杉田、保土ヶ谷、本牧等に、共立女子神学校の10余名の神学生が教会学校の拠点を確保した。朱寛宇牧師、金영성牧師、金禹鉉牧師、孫世権長老、朴昌瑞長老、孫昌淳長老や婦人会員が家庭訪問・伝道集会などを活発に展開する。当時の神学生(写真)の中には、李永實女性伝道師の他、孔徳喜(尹潽善大統領夫人)、朴容吉(文益煥牧師婦人)、金淳好(1951年殉教)、白仁淑(1950年殉教)、韓義貞(1950年殉教)らの優れた指導者がいる。

横浜共立女子神学校朝鮮学生一同 1939.4.12 (現:横浜共立学園資料)

こうした教会の活動は、日本語強制、神棚設置などの皇民化政策を進める「協和会」と敵対するものであった。協和会は民族的な団体に厳しい弾圧をし、1939年以降は礼拝での朝鮮語禁止などと圧力をかけたが、教会は民族の拠り所として抵抗を続け、特高資料に「教会での日本語使用は遅々として進まない」と記されており、協和事業年間には、神奈川での神棚設置運動や日本語使用、和服着用講習会が民族的志向のためはかどらない実情が記されている。皇民化政策をおしつけるために、真鍮製のスプーン、椀などの食器の供出、朝鮮人の食材(とうがらし、ニンニク)等の販売禁止、協和会手帳携帯による食料配給、移動・就業の制限など同胞に対する弾圧を強めていた。

1939年以降、日本政府がキリスト教界を弾圧し、「日本キリスト教団統合」などを通じて、横浜教会での朝鮮語使用禁止のための官憲監視などで、信徒が横浜教会に出られなくなり、県内各地での礼拝に参加するようになっていった。当時の協和会主催の講習会の写真が横浜教会保有のスクラップに見受けられる。これを残した横浜教会の先達は何を語りたかったのだろうか。
1940年、横浜教会での圧迫は強まり、孫昌淳長老(青年会書記)が警察に緊急逮捕され、家宅捜査で教会の書類と写真が押収され、数日間調査のために留置させられた後釈放された。朱寛宇牧師は健康状態が悪化し、本国帰国、李永實伝道師のみ教役者として残り、神学生と共に、県下の各地の拠点を守り続け、現在の打越の土地が購入取得された。
1941年、李永植牧師着任に伴い、李永實伝道師帰国する。1945年、横浜大空襲のため教会堂全焼、しばらく日本の教会(指路教会他)を借用し、礼拝を守る。日本国敗戦と共に李永植牧師と共立女子神学生たちは帰国。信徒は各地に分散し、わずかな信徒たちで仮礼拝堂をブロックで作り、教役者のいない横浜教会を守る。

復興する横浜教会(1945~1971)

 戦争が終わって、横浜教会は全焼し、中村町、伊勢佐木町など市内の中心地域は焼け野が原になっていた。横浜教会の信徒は分散し、教会堂の焼け跡にはバラック小屋が建てられ、わずかな信徒(故金連伯長老)によって、教会跡が守られていたが、指導者もなく集合して礼拝を持つことはできなかった。
1946年、李용전氏宅で教会学校が開かれ、1947年2月、崔영덕氏宅、정화독氏宅(中村町)で家庭礼拝が持たれた。

1949年には、東京から学生の尹官炳、李仁夏、裵琪煥氏らが礼拝を引導し、李誠七氏の自宅で定期的な家庭礼拝が持たれるようになり、1950年に成丁萬神学生が横浜教会に奉仕することによって、横浜教会の再建が始まった。1951年、横浜教会堂建築期成会が組織され、전은해宣教師が担任することになり、成丁萬講道師の横浜教会執務によって、教会堂建築献金募金80,000円がなされ、工事中の教会堂で、主日学校と礼拝が持たれた。1953年2月1日、教会献堂式と成丁萬牧師委任式が盛大に挙行された。成丁萬牧師時代には、金安弘神学生(東京神学大学)、金君植神学生(東京神学大学)が奉仕し、教会学校の充実、横須賀伝道所の強化がはかられた。
1956年、成丁萬牧師が福岡教会転任のために離任することとなり、1957年、裵琪煥牧師が着任した。鄭淑子神学生(共立女子神学校)が奉仕し、教会学校を充実させた。1960年、横浜教会堂を改築、礼拝堂増築。裵琪煥牧師は5年執務し、カナダ留学のため、1962年横浜教会を辞任、同1962年韓国から黄在正牧師が着任した。1965年、韓日国交正常化、1967年日本基督教団戦争責任告白など、日・韓の関係が大きく変化し、韓国との交流が盛んになり、韓国からの留学生が教会にも増加し、青年会の活動が活発になった。また、この青年たちが神奈川県韓国人学生会の役員だったため、韓青などの青年たちとの交流も見られた。横浜領事館開設後、職員が横浜教会に出席したため、教会のリーダーシップが強化された。その後も、領事館関係者、家族、留学生、駐日企業関係者等、横浜教会の教勢と信仰形成に大きな糧となっている。
1970年、黄在正牧師オーストラリア留学のため横浜教会辞任、楊炯春牧師が1年間執務したのち、横須賀教会転任のため辞任、1971年金君植牧師をドイツから招請し、着任。

地域に仕えるエキュメニカルな教会

1967年、在日大韓基督教会70周年のスローガンは「キリストに従ってこの世に」であった。1970年の万博問題、青年たちによる学生運動激化(全共闘)等、日本の諸教会は混乱し、横浜教会は宣教の方向と内容を問われていた。
1971年、ドイツ留学から横浜教会に着任した金君植牧師が最初に手をつけたのは、教会学校の充実であり、山下町、中村町の同胞地域に足を向け、ノン・クリスチャン家族の子供を教会に集めることであり、次には子供たちの諸問題に取り組むことであった。1972年、李永欽長老将立、社会福祉法人マルタ会設立、打越保育園開園、横浜教会堂建築、1973年金連伯長老将立、1978年、「信愛塾」設立。公立学校交渉。
保育園開園と教会堂建築を同時に推進したのは、社会福祉法人の保育事業に対する公的助成金や補助金の活用が得られ、教会員の募金、民団その他の募金を基に教会の全面新築が可能になったのである。特に、民団その他有志による募金は予想をはるかに越えるものであった。民団や同胞経済人の古老たちに聞いてみたところ、李誠七氏の話題になり、氏が関東大震災や無縁仏の埋葬に尽力してくれたことの感謝であることを聞かされ、キリスト者の働きが実を結ぶことの大切さを体験することとなった。

 横浜教会の打越保育園はキリスト教育に基づくが、国籍差別がなく、当時数少なかった障害者の受け入れを積極的に進めた。地域住民に対する直接宣教ではないが、地域に仕える事業として着実に進められ、今日に至っている。

 「信愛塾」は公立学校の就学案内が同胞家庭に通知されないことの親の不安を受け止め、日本のキリスト者らと行政交渉を始めたのがきっかけで設立された。場所は当初、山下町で行われ、中村町に移転し、現在はNPO法人を取得し、行政や幅広い市民の支援で運営されるようになった。設立当時から長い間、横浜教会から毎月財政支援を続けているが、「信愛塾」で礼拝などの宗教活動が行われなくなってから、教会の財政支援について論議されたが、布教を目的とする直接宣教ではないが、福音を実践化する事業として支援することになり、教会の重要な支援事業として続けられている。

 横浜教会は保育園事業において、多国籍の児童を受け入れており、「信愛塾」も現在、韓国・朝鮮籍の他にフィリピン、中国籍の子供たちが学んでいる。横浜教会自体も国籍、出身教会、環境の異なる社会で生きてきた人たちが形成する教会である。

 横浜教会は日本キリスト教団との合同礼拝や横浜長老教会との交流を通じて、共に地域の働きに協働することを目指している。

1984年、金君植牧師総会総務専任のため横浜教会辞任。同年、尹宗銀牧師着任。
1988年金廣照長老将立、創立60周年教会堂増築、1990年呂鳳基長老将立。1991年玄関、階段改築。尹宗銀牧師は教会内信徒訓練、教会学校充実、保育園事業安定運営などに力を注ぎ、横浜長老教会との交流、信愛塾理事長として、尽力され、1998年定年退職するまで14年間執務された。
1999年、李根秀牧師着任。2001年崔永貴長老・沈順岳長老将立、2007年金芳植長老将立。
2010年、李明忠牧師着任

2014年、教会堂、保育園の耐震問題のため新築することを決議する。

​2015年、4月解体工事スタート。新築工事中の礼拝会場は横浜中央YMCAのチャペル、及び韓国教育院を借りた。保育園は山下公園前の国有地に仮園舎を建てて保育にあたった。

2016年、4月新会堂・新園舎完成

〈編集:金廣照・李明忠〉